意志と世界の非実在証明③
3:区別する存在は区別しない存在がなければ存在しえない
主観たるあなたは区別する存在です
しかしそもそもじゃあ何を区別しているのでしょう
雨や雷やおじいさんや母親は区別なくして存在しえません
しかし区別するということはその前に区別してないなにかが存在してなければいけません
時にはそれは目や耳や手や足、皮膚感覚などでしょう
でもそれらにも区別するまえがあったはずです
究極的にいえばそれは認識であるはずです
(ごめんなさい、ちょっとここらへんから言葉に自信ないです)
(そして一気に直感から離れます、言いたいことからかい離を始めている気もします言葉で表現するのがむずかしいんです)
(だから逃げと思われるかもしれませんが、後で修正するのこみで行きます)
しかし問題がありますそれは区別の前に認識があるとするなら
主観たるあなたの区別なくして認識が存在することになります
ありえるのでしょうか?
それとも認識が主観たるあなたで区別は結果なのでしょうか?
いやおかしいですよね?
それもおかしいですよね?主観たるあなたは区別する存在です
認識は区別しえません認識は区別する存在ではありえないからです認識が区別するならその区別はどこから来ているかわかりません
しかしそれは問題ではありません、仮にここで認識が区別する存在で主観たるあなたである、つまり3者は同一の存在であるとも過程します(過程Bと呼称しますあとでつかいます)
区別するが認識から区別できる情報を得ているだけです
つまり主観たるあなたがどちらに所属するかといえば
おわかりですね、
主観たるあなたの正体は”区別する”なのです
そして認識の正体は”区別しない”なのです
※:区別するより前に認識が存在してるつまり主観たるあなたが区別しなくても存在しているといえる(こういうことでもあります)
しかしそれはもう存在とはいえない(言葉として)と思います(伝えられない)、主観たるあなたはこの場合の認識を区別できないし主観たるあなたの区別なく存在するということは主観たるあなたにとっては存在していないからです
つまり、この場合の認識は存在し存在してないあるしないいるしいない認識という言葉に”区別して”変換することは可能ですが、実際は記述不可能です
しかし、ここが肝でもあります
ここは体感するしかありませんが、この場合の認識にはもはやすべてが意味をなしません うーん、オカルティックなことをいってるわけではないってことだけわかってもらえれば・・・・
ざっくりいえば、これを空想の産物としてとらえても、僕の思い込みとしてとらえてもらっても構いません。論理的でさえあれば
でも、やっぱりここを説明できないと他が何でもありなっちゃいますかねえ・・・
4.8追記
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