哲学と悟り、ついでに論文「意識と世界の非実在性証明」

哲学とか悟りとかあと個人的な論文みたいななにかとか

ソクラテスの門答に対するひとつの解釈

ソクラテスの門答ってご存知ですか?

ギリシャの偉大な哲学者であるソクラテスは自分の知識を確かめるために同じ時代の偉人、哲学者、政治家いろんな知っていると自称する人に質問をぶつけるんです

たとえば

「猫ってなんですか」とソクラテスは聞きます

いろんな人がそれぞれの言葉で

「猫はニャーと鳴くものだよ」

とか

「猫は素早い生き物だよ」

とか猫の特色を語ります

それに対してソクラテス

「ニャーと鳴くのは全部猫なんですか?」

とか

「素早い生き物は全部猫なんですか?」

と問いを続けていきます

当然、どこかでギブアップすることになります

そしてソクラテスは知ります

「なんだ、こいつら何でも知ってるっていうけどなにも知らないじゃないか

猫ですら説明できないじゃないか」

と、そして

「少なくとも何も知らないことを今ここで知ったってことは

何も知らないことを知らないこの知ったかぶりどもよりはましだ

少なくともこのソクラテス無知の知を知っている」

という結論に達するというお話です

どうですかね、当たり前じゃないかって思うかもしれませんし

ほう、なかなかすごいなって思うかもしれませんね

 

でも、もしこの時代にほんとうに知っているものがいたとしたら

ソクラテスが納得するかどうかはともかく、一つの答えが出せたと思うんです

 

ほんとうに知っているものは例えばソクラテス

「猫ってなに?」ってきくと
「はっはっは簡単ですよ猫は猫です」
ってこたえる
ソクラテスはきっと満足行かないから
「いやそれは猫って言葉でしょ私が言ってるのは猫はなんですかっていう事なんです」っていう
「うーん、難しい人だなあwwようは猫は猫って言葉にすぎないってあなたが区別したそれとはまた別に猫があるでしょって聞きたいんですよね?
簡単ですよ それは猫ですwww」

実際問題あの世界に知っている者がいたらこうなると思うんだがどうなんでしょうね
なにがいいたいかっていうと結局猫が何であるかを決めるのはどうこたえられようがソクラテス自身なんです
それが言葉の猫であれほんとうの猫であれ
理解を超えた答えを言うなら猫はいないんですけどまあそれは置いといて

○○ってなんですか?ってソクラテスが聞いている時点ですでにソクラテスは○○を区別しています
猫の例なら犬でも牛でも馬でもなく
猫だとすでにソクラテスは区別している
区別しえないものは存在出来ないソクラテスの主観の中では
んでその上で「猫ってなんですか」
って聞いてる
実際にソクラテスが質問してる本質は
「猫という区別はなんですか」になっています
しかし他者は主観たるソクラテスの区別には干渉できません
主観たるソクラテスの主観はソクラテスしか持ってないからです
だから「猫という区別はなんですか?」
っていう質問にも
「あなたが猫と区別しているものですよ」
としかいえない
もちろんソクラテスはより科学的あるいはソクラテスが区別する”本質的”な答えを望むでしょう
そしてその答えによって形質を区別したり行動を区別したり関係性によっても区別するかもしれません
もちろんその区別は猫という区別を細かく分割する事はできるし猫という存在の理解の”区別”もすすむでしょう


でも結局 彼は”区別”しているだけです
どれだけ猫という区別を細かく裁断していってより小さな差異の”区別”を見いだしたところで

主観たるソクラテスが”区別”した猫以外にはなりえません
猫はソクラテスがどうあがいたって主観たるソクラテスが”区別”しないと存在しないからです
だから「猫って何ですか」の答えもどこまで行っても「猫は猫だよあなたが猫と区別したものそれが猫だよ」になります
ほんとうのねこはどこにもいないし存在しえません

PGZ