哲学と悟り、ついでに論文「意識と世界の非実在性証明」

哲学とか悟りとかあと個人的な論文みたいななにかとか

意識は死なない存在 プレver 3

空という考え方はご理解いただけたでしょうか?

 

空とはあらゆる可能性を内在し、なおかつ発現してない状態

 

つまり、空も色も結果次第のいろ違いという言い方もできます

オセロのようなものです

空であり続ければずっと空だし、一方 色になればもともと色になる状態で保存されていたっていう結果総取りの世界観です

 

では少し前の例の肉体が完全消失したのに、意識が消えなかったなぞに再度挑みましょう

 

もうお分かりですね?

 

そうです、色は色の器たる肉体が色の器たる状態を失ったとき消えます

しかしそれは色の存在が消滅、あるいは死んだわけではありません

 

”空”という場合によっては再存在するかもしれないという可能性世界へ逃げ込んだのです

 

これが、これこそが意識(色)が死なない正体です

 

死は色に害を加えられません、色の器という状態を破壊することはできても

”色の器”という状態の可能性(空)まで消すことは不可能だからです

 

”色”は結果論の世界に生きるため、色の器たる結果が状態として再現されればそこに再度現れます

”色”は”空”と同じく根本的に不滅なのです

 

色は結果

空は可能性

 

でも、あなたはこうお思いかもしれませんね?

理論としてはわかったよ、でも現実問題、自分が同じ状態で再現される可能性なんて天文学的に低い確率だろ?

起こりえないことは起こりえない、結局それは死んでるのと同じだろって

 

はっはー、ネガティブですねww

わかります、てかこれ書いてる僕も死ぬときはやっぱ怖いと思います

まあそれは置いといて

生きている人で自分が死んだあと無限につづくとも思える時間の連鎖の前に自身の生の無力感、切なさを感じ打ちひしがれる人たちがいます

いわゆる、死による虚無の恐怖です

 

しかし、”無限とも思える時間”、なにか気づきません?

そう無限なんですよwwww

確率がどんだけ低くても、どんだけ起こりえない事象でも

無限という時間(もはや時間の枠さえ無意味かもしれませんが)の前ではすべてが起こりえます

 

そもそも事象としては”色の器”たる状態が再現されればいいので

それが

パラレルワールドだろうが

異世界転生だろうが

マトリックス的な電脳世界だろうが

死後の世界だろうと

天国、地獄だろうと

”色”としては『結果論として認識を自覚できれば勝ち』という

かなりのイージーゲームといえます

 

ただし、この”色”

不滅じゃんやったぜラッキー俺死なねえじゃんwww

っていう幸運ばかりをもたらすものではありません

 

むしろ考え方によってはとっても恐ろしい、および頭が狂いそうになる展開を

現実世界に持ち込んできます

ただそれはまた別のお話

 

今回は、意識(色)の不滅性に対するお話でした

 

PGZ

意識は死なない存在 プレver 1

あなた(色)は死なないわ、私(空)が守るもの

はいどーも、PGZです

なお、今回の話は暇なときにばーーじょんアップさせるかもしれないので

プレverとしておきます

 

さて、意識はいつ死ぬと思いますか?

肉体が機能を停止したら、まあ順当な答えですよね

ブッブー

はい意識は死にません、この結論に納得されない方ばかりだと思うので

そのことについて説明します

 

まずそもそも意識が人生のどの部分に発生しているかという話になります

多くの人が

意識=誕生+生+死 という大きな枠組みでとらえていますがこれが間違いです

自身の誕生と死を意識は自覚できません、他人の状態の結果から自分の状態の結果を推測しているにすぎません

そしてそれゆえに大いなる勘違いが発生しました

意識が人生のどの部分に発生しているかというと

意識=生

この部分だけです

誕生も死も知識として知るのみで自分が体感することはありえません

もちろんお母さんの〇〇ンコを潜り抜けるころにはもしかしたら意識を知覚しうる可能性もありますが、意識としての誕生そのものはそのずっとまえにあります

そしてその原初の意識が”色”です

あなたが主観たるあなたたる所以、強烈な自己が自己たる自覚

それが”色”です

 

基本的に意識は状態です。脳みそ、あるいは肉体との相互状態の総体が意識たるあなたを形成します。科学の話です。

 

これをどうほじくり返そうと、意識そのものがどこかにあることはありません

 

意識は”状態”そのものだからです

(いちおう、ほかの説もありますが、今はこっちが主流でしょ?アフォーダンスとかだっけ?)

 

色も同じです、色も意識の一部であり、状態だからです。

これからすこし話が発展するのでこの色が発現してる意識状態を

”色の器”と呼びます

 

んで、面白いのが”色”、つまり自己が自己たる認識は生きている限り壊れません

はたから見たら壊れているように見えても、色の器たる限り、色は色足りえます

つまり主観があなたの中に存在し続けるということです

 

記憶喪失になろうが、あっぱらぱーになろうが、酒に酔って心神喪失になっても主観たるあなたは主観を失いませんよね?覚えてなくても

これが色の特性です、今後問題になりますが、今回は色があなたを主観足らしめているというぐらいで抑えといてください

 

ではではなぜ意識は死なないか、それも色の特性だからです

色は色の器に宿ります、つまり主観がある状態にある脳みそが色です

その状態が崩れれば色は消えます、それは当然です

しかし色の特性の一つが結果主義です

色にとってはいまその状態が存在さえしていれば万事オッケーなのです

たとえば死後の世界を想像してください、あなたは死にましたが色たる意識、主観たるあなたは存続しています、死んでいるがこれでは生きているのと変わりありません、意識状態としていえば

死後の世界を想定したいのではありません、色にとって現実はなんでもいいという想定です

人間は色の器という状態の喪失が死だと想定しています

がそれが大いなる勘違いなのです

色は色の器に宿ります、逆に言えば色の器さえあれば色は宿るということでもあります

 

ごくごく簡単にご説明しますね、心臓が停止して脳波も停止したある状態の人間がいます、生物学的にいえばこれは死です。

しかし蘇生して生き返れば彼は生き返りますよね?

どれだけの意識状態を保持できるかは脳へのダメージにもよりますが、色は失われません

そりゃそうだよ、だって彼死ななかったじゃんって、いまあなた思いました?

そうです、それが勘違いなのです

ではもっと発展させましょう、ここからは空想も必要です

彼は死にました土に埋葬され、遺体は土へと返りました

しかし、情報技術が発展しクローニングも発展し彼と全く同じ状態を再現することができるようになり、その肉体を死んだ要因だけ取り除いて完璧に再現しました

さあ、いよいよ蘇生のときです、前者と同じように彼を蘇生させます

生き返った彼は言いました

「ふー、”死ななかったwww^^”」

 

さて、どう思いでしょう、既存脳科学では後者には意識が宿らないとする説もあります

それは尊重します

しかし、それでは話が進まないので意識は状態から発生する前提で続けます

彼は誰でしょうか?

 

そうです、彼が”色”です

 

肉体として滅びる前がどうであれ

いまこうして自身が継続していると認識して疑わない

その状態そのものが”色”だからです

 

そして色が存在できるのも、色の器たる彼の状態が再現された結果です

ではなぜ色は存続できたのでしょう?

あるいは、その状態になるかならないか定まらない間、色はどうしていたのでしょう

そこに”空”が現れます

つづく

いまきづいたけど、これバークリーの論理とちょっと似てますね

バークリー

人間が知覚するから存在する

だれも見ていないところでは神が見ているから存在は消えない

 

僕が言ってるの

他人の知覚は問題ではない自分が知覚するから存在する

自分が知覚していなかったらそれは存在してない

例えば目に映るものが視界外がから外れたら、それは目に映るものとしては存在していない

別角度からたとえカメラで撮っていて、それを確認したとして

それは別角度で撮ったカメラの映像をその時区別しているにすぎない

 

って感じでしょうか

言葉にすると違いも大きいですね

ソクラテスの門答に対するひとつの解釈

ソクラテスの門答ってご存知ですか?

ギリシャの偉大な哲学者であるソクラテスは自分の知識を確かめるために同じ時代の偉人、哲学者、政治家いろんな知っていると自称する人に質問をぶつけるんです

たとえば

「猫ってなんですか」とソクラテスは聞きます

いろんな人がそれぞれの言葉で

「猫はニャーと鳴くものだよ」

とか

「猫は素早い生き物だよ」

とか猫の特色を語ります

それに対してソクラテス

「ニャーと鳴くのは全部猫なんですか?」

とか

「素早い生き物は全部猫なんですか?」

と問いを続けていきます

当然、どこかでギブアップすることになります

そしてソクラテスは知ります

「なんだ、こいつら何でも知ってるっていうけどなにも知らないじゃないか

猫ですら説明できないじゃないか」

と、そして

「少なくとも何も知らないことを今ここで知ったってことは

何も知らないことを知らないこの知ったかぶりどもよりはましだ

少なくともこのソクラテス無知の知を知っている」

という結論に達するというお話です

どうですかね、当たり前じゃないかって思うかもしれませんし

ほう、なかなかすごいなって思うかもしれませんね

 

でも、もしこの時代にほんとうに知っているものがいたとしたら

ソクラテスが納得するかどうかはともかく、一つの答えが出せたと思うんです

 

ほんとうに知っているものは例えばソクラテス

「猫ってなに?」ってきくと
「はっはっは簡単ですよ猫は猫です」
ってこたえる
ソクラテスはきっと満足行かないから
「いやそれは猫って言葉でしょ私が言ってるのは猫はなんですかっていう事なんです」っていう
「うーん、難しい人だなあwwようは猫は猫って言葉にすぎないってあなたが区別したそれとはまた別に猫があるでしょって聞きたいんですよね?
簡単ですよ それは猫ですwww」

実際問題あの世界に知っている者がいたらこうなると思うんだがどうなんでしょうね
なにがいいたいかっていうと結局猫が何であるかを決めるのはどうこたえられようがソクラテス自身なんです
それが言葉の猫であれほんとうの猫であれ
理解を超えた答えを言うなら猫はいないんですけどまあそれは置いといて

○○ってなんですか?ってソクラテスが聞いている時点ですでにソクラテスは○○を区別しています
猫の例なら犬でも牛でも馬でもなく
猫だとすでにソクラテスは区別している
区別しえないものは存在出来ないソクラテスの主観の中では
んでその上で「猫ってなんですか」
って聞いてる
実際にソクラテスが質問してる本質は
「猫という区別はなんですか」になっています
しかし他者は主観たるソクラテスの区別には干渉できません
主観たるソクラテスの主観はソクラテスしか持ってないからです
だから「猫という区別はなんですか?」
っていう質問にも
「あなたが猫と区別しているものですよ」
としかいえない
もちろんソクラテスはより科学的あるいはソクラテスが区別する”本質的”な答えを望むでしょう
そしてその答えによって形質を区別したり行動を区別したり関係性によっても区別するかもしれません
もちろんその区別は猫という区別を細かく分割する事はできるし猫という存在の理解の”区別”もすすむでしょう


でも結局 彼は”区別”しているだけです
どれだけ猫という区別を細かく裁断していってより小さな差異の”区別”を見いだしたところで

主観たるソクラテスが”区別”した猫以外にはなりえません
猫はソクラテスがどうあがいたって主観たるソクラテスが”区別”しないと存在しないからです
だから「猫って何ですか」の答えもどこまで行っても「猫は猫だよあなたが猫と区別したものそれが猫だよ」になります
ほんとうのねこはどこにもいないし存在しえません

PGZ

駄文、いいわけの巻

証明を終了して・・・

 

さて、まあとりあえずこうがーーといきおいで書いていったわけですけども

無理ですよねwww?

全部お読みいただいた方はありがとうございます

そしてこうお思いですよねww

いやありえねえよ、あほちゃうの?

って

 

主観たるあなたは現にいまこうして存在していて

時間を感じ世界を感じ苦も楽も快も不快も感じてますもんね

 

じゃあいまこのここは何なんだよってお思いですよね

存在しえないなら存在してる主観たるあなたはなんなのよって

 

ごめんなさいとしか僕にはいえません、いまはそのあなたのある状態に

適切な言葉を持ちえません

ただ主観たるあなたは存在しえないということを論理的にいうことしかできません

 

もし言語化しようとするなら

それは夢だよ

とか

ぜんぶまやかしだよ

とか

いう人もいるかもしれません、中にはその状態がなんであるかを知ってはいるが適切な言葉がないから夢、幻とかまやかし、妄想とかいう人もいるかもしれません

しかしそれは間違いです、存在しえないところに夢も幻もまやかしも存在しえません

ただ存在しえないのみです

存在しないのではなく存在しえないのです

 

意味わかんねーよってここまで辛抱強く読んでくださってありがとうございます

主観たるあなたの人生の幸運を祈って、ひとまずここで文を終わります

 

PGZ

意志と世界の非実在証明⑤終

6:ゆえに主観たるあなたも世界も存在しない

 

主観たるあなた=区別する

の前に区別しないが存在していることがわかりました

しかし同時に区別しないは区別しない以上、なんのアクションも起こさない

ということもわかりました

そしてなによりも区別するは区別しないなくしては存在しえないが

区別しないは区別するがなくても存在しうることがわかりました

 

つまり区別するは区別しないより先にあるということになります(時間的な意味ではありませんので念のため)

いやそもそももはや先すらありません

区別しないはなにも区別しません

なにもかもただあるがままです

ここに至っては存在しているかどうかは意味がありません

区別がないはただあるだけだからです

区別するに情報を与えるわけではないし

区別するに情報を与えないわけではない

区別するを存在させるわけではないし

区別するを存在させないわけではない

なにも生み出しませんし

なにもかも生み出します

なにもかも終わっていますし

なにもかも終わらせません

 

難しいですよね我慢してくださいwww

疑問反論は受け付けます

 

ただここで大事なことがあります、この区別しないがない限り決して主観たるあなた=区別するは存在しえないということです

 

しかし一方区別しないはなにも区別しません

なにも区別しない以上、主観たるあなたが存在してはいけません

存在するとすると区別しないは”主観たるあなたが存在する”と区別していることになり矛盾します

存在しないとしても同じです

 

つまりあなたは存在しません、いえ存在するしないではないのです

存在しえないのです(言葉はむずかしいですがニュアンスだけでも伝われば・・・)

すべてが消失する時が来ました

主観たるあなたが存在しえない以上

主観たるあなたが区別し存在させているすべてが存在しえません

世界も時間も雷も恐怖も宇宙もそれ以外のあなたが区別しているあらゆる概念が存在しえません

それらは主観たるあなたが区別するから存在しているからです

主観たるあなたが存在しえないなら存在しえません

 

意識も世界も存在しえない

そもそもそれは原理的に不可能となります

 

え~と、ちょっとでも伝わりましたでしょうか

語るに足りないところ、文章の間違い、はお詫びいたします

以上を持ちまして、意識、世界の非実在証明を終了します

 

 

意志と世界の非実在証明④

4:区別しない存在はなにもしない

 

さて認識の正体は区別しないとなりました、区別するがあるんだから当然必要

と思われますよね?まあ必要があるから区別したんですけどね

しかし問題がつづきます

区別しないは区別しません、当然区別するも区別しません

区別するを区別しないんだから彼に区別すべき情報を与えません

区別するの大元の区別するべき主体が存在しないことになります

 

一方区別するは区別しないを当然区別できえます区別するんですから

 

つまり区別しないは区別するが存在しなくても存在しうるが

区別するは区別しないが存在しなければ存在できないことになります

 

これは過程Bの認識が区別しているとしてもかわりません

区別するには結局区別しないが必要だからです

区別しないを認識と呼ぼうがどのような言葉を使おうが主観たるあなた=区別する

には必要です

 

しかし主観たるあなたの区別なくしては何ものも存在しえないはずです

区別しえないが存在するのはあきらかにおかしいですよね?

 

いよいよおかしくなってきました、

みなさんもこいつは頭がおかしくなったと思われてると思います

言葉や文章的に問題や矛盾があるのはお許しください随時訂正します

しかし僕は素面です(正常とはいわない)

 

しかしじつはたった一つその問題を解消する方法があります

そうです、主観たるあなたが消えればいいのです

意識および世界が消失する時が来ました